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コンピュータのなかには夢を実現する環境がある――第145回(上)

千人回峰(対談連載)

2015/10/08 00:00

堀内 征治

特定非営利活動法人高専プロコン交流育成協会顧問 国立長野工業高等専門学校名誉教授 前長野市教育長 堀内征治

構成・文/谷口一
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2015年10月05日号 vol.1598掲載

 1990年、堀内先生が先導されて、全国高等専門学校プログラミングコンテスト(高専プロコン)が始まった。「教育のなかには創造的なものが絶対に必要だ」という信念の下、「子どもたちの頭脳を生かすのは、ソフトウェアの領域だ」という思いがあったという。先生の歩みとともに、高専プロコンは今年で26回目を迎える。いつもは高専プロコンを取り上げるが、今回は先生ご自身にスポットをあてよう。(本紙主幹・奥田喜久男)

2015.6.15/BCN本社にて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第145回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

長野高専の助手時代「情報処理教育は任せる」

奥田 先生は機械工学がご専攻ですが、コンピュータとはどんな出会いをされたのでしょうか。

堀内 機械工学のなかで、ミクロン単位の精密計測をどうやるかという領域で、計算を高速で処理しなくてはいけない。そこでコンピュータと出会いました。

奥田 1960年代後半ですね。当時のコンピュータはどんなものだったんですか。

堀内 富士通の超大型汎用コンピュータ「FACOM230」シリーズが出る前ですね。どうやってこんなすごい機械が世の中に出てきたんだろう、という感動がありました。そして同時に、プログラムで何か新しいものができるな、という印象をもちました。

奥田 そこからどんどんソフトウェアの世界に入って行かれた。

堀内 ええ。大学を卒業して国立長野工業高等専門学校(長野高専)の助手になったときは、機械工学科に所属していました。ところが、長野高専でも情報処理教育をやる必要があるということになって、そうした経験のある教員がまだいない時代でしたから、校長が全教員に「将来の教育について作文を書け」と命じたんです。そのときに私の作文を校長が読んで、「情報教育は堀内に任せるから、お前やれ」ということになったのです。一介の助手に、「電子計算機センターをつくれ」と。

奥田 長野高専の機械工学科の助手から、電子計算機センターの責任者になられた。おいくつのときですか。

堀内 27~28歳ですね。ちょうど文部省(当時)で、情報処理教育をどうすべきか、とくに高等教育機関でどうするのかが大きな課題になっていた頃です。それに乗っかったかたちで、私もいろいろな研修会に参加するなかで、文部省の研修制度で一年間、東京大学にお世話になりました。本郷の渡辺茂(※1)先生の研究室で、渡辺先生と助教授の三浦宏文(※2)先生といっしょに研究をさせていただきました。

奥田 具体的にはどのような研究をされたのですか。

堀内 主には、電子計算機センター、現在の情報教育センターですけれど、それをどうつくってどう発展させていくのか。そのための勉強をしながら、自分の研究テーマの機械工学や情報工学を学んでいました。とくに私の場合、教育と情報をどう結びつけるかという教育工学面の研究を行いました。

奥田 そうすると、教壇に立つ際、先生としても学科が変わるわけですか。

堀内 そうですね。ただ、機械工学科に所属しながら全学科の情報教育をみるというかたちで、情報教育センターの専属みたいになっていました。それが高専時代の前半。それから新しい学科をつくる波がでてきて、電子情報工学科という学科をつくりました。

奥田 それは何年頃ですか。

堀内 創立は1989年でした。私は高専時代に四つのステージがあって、第一期は機械工学科時代、第二期は情報教育センター時代、それから電子情報工学科に移籍してからの10年間が第三期、最後の第四期が管理職の立場ですね。長い高専生活なのですけれども、だらだらした感じはなく、張りつめて過ごすことができました。
 

創造を仕組みとして可能にするコンピュータ

奥田 先生の歩みは、日本のコンピュータ産業の発展と呼応している感じがします。

堀内 そうですね。黎明期ってありますよね。そこから速いスピードで進化していく時代と、ちょうど合っていたかもしれません。

奥田 四十数年間、高専で教えられたお立場から、市場の変化やコンピュータの進化をどんなふうに捉えておられますか。今はスマートフォンの時代で、コンピュータはかつての大型のものがスティックになるという時代です。

堀内 情報処理の世界、とくにコンピュータのハードウェアとソフトウェアの進化は非常にテンポが速かったですね。その速い移り変わりのなかで、日本という国の上昇機運というのでしょうか、それと合っていたという感じがしています。とくに汎用機から次の時代に移るときに、小さなマイコンが出てきた。マイコンは、日本にとって大きな歴史的な意味があると思うんです。こういうものを非常に上手に採り入れてきた過程があった。それが産業界でも認められて、教育のなかでも必要性と重要性が結び付けられ、うまくかみ合ってきた時代ですね。

奥田 メディアという私の立場から、技術・産業の発展と教育を三軸でみると、マイコンが出始めた70年代後半は、産業界はメインフレームの全盛期です。マイコンがパソコンになっていくと、今度は企業が徐々にパソコンを使うようになっていって、メインフレームが落ち込んでいく。教育界では、まだ情報処理の大きなところを教えておられる。技術や商品が先にいって、産業と学問が後からついてくるという気がしていまして……。

堀内 メインフレームとそれに関わるソフトウェアは、逆に産業界が長く大事にしてきたものです。教育界としては、例えばOSの進化とか、もう少し先をみたい、先へ行きたいというのがあったと思うんです。それが、例えば現場でいえば、COBOLはコンピュータ言語としては古くても大事にしなければいけないという流れのなかで、またOSも大事にしなくてはならない、じゃあ、Linux時代をどうしましょうか、というようなことがあった。そこにまず、一部の産業界と教育界の方がメスを入れてきたわけです。ですから、テンポが速く、少し先端をいく方とそうでない方の間に非常に大きな差が生まれました。

奥田 確かに、新しい先駆的な人たちが次の時代を引っ張ってきたというのを感じます。今のSNSにしても、限られた少数の人が、それも若い人たちがポンと出て、10年ぐらいするとすごい波になって産業化する。これは、コンピュータの世界に限られたことなんでしょうか。

堀内 そうですね、コンピュータの世界は、それがやりやすい世界かもしれません。

奥田 どうしてでしょうか。

堀内 創造的なことを仕組みとして可能にしてくれるハードウェアがあり、それを動かすソフトウェアがあるからではないでしょうか。コンピュータのなかには、夢を実現するためにとてもいい環境があると思いますね。


※1
渡辺茂(1918 ~ 1992)
東京帝国大学工学部卒。東京大学第一工学部助教授を経て、1953年東京大学工学部教授に就任。専門はシステム工学・情報科学。79年定年退官し、名誉教授。東京都立工科短期大学学長。76年に日本マイコンクラブを創設して初代会長に就任するなど、コンピュータの普及にも貢献した


※2
三浦宏文(1932 ~)
東京大学大学院数物系研究科機械工学専攻博士課程修了。東京大学助教授、米航空宇宙局(NASA)客員研究員を経て、東京大学工学部教授に就任。東京大学名誉教授。2003~09年、工学院大学学長。専門はロボティクス、マイクロ技術、スペーステクノロジ、メカトロニクス。元日本ロボット学会会長。世界初の2足歩行ロボットをつくった

Profile

堀内 征治

(ほりうち せいじ) 1968年、信州大学工学部機械工学科を卒業し、長野工業高等専門学校で教員生活に入る。電子制御工学科・電子情報工学科教授。2009年、長野高専を退任し、長野市教育長に就任。2009~13年にはNPO法人高専プロコン交流育成協会(NAPROCK)理事長を、また2000年から14年にわたって長野県合唱連盟理事長を務めた。