「F1村」が好きだ。 だから仲間を増やしたい ――第153回(下)

千人回峰(対談連載)

2016/02/11 00:00

津川 哲夫

モータースポーツジャーナリスト 津川哲夫

構成・文/浅井美江
撮影/岡島 朗

週刊BCN 2016年02月08日号 vol.1615掲載

 津川さんはとにかくぶれない。どんな質問を投げても、返ってくる言葉はF1の神髄であり、F1の仲間たちである。だが、それは決してクローズドではなく、F1の世界観とその魅力を伝えるために、限りなくオープンなのだ。津川さんの頭には小さな“髷(まげ)”がある。メカニックとして修業を重ねていた頃、“さむらい”を目指して結い始めた。27才でF1に魅せられ、その志は高速回転、ゴォーゴォーと爆音をたてながら人生を疾走し続けている。(本紙主幹・奥田喜久男)

2015.11.10/BCN22世紀アカデミールームにて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第153回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

メカニックからジャーナリストへ

奥田 F1のメカニックを辞められたのは41歳。そこから次のステップへは、どんな気概をもって入っていかれたんですか。

津川 メカニックとしてはもう体力的に限界でしたから、辞めることは決めていました。でも、実は次に何をやるかは決めたくなかったんです。“辞める”ということを先に置きたかった。

奥田 それは自分を追い込むということでしょうか。

津川 うーん。キリをつけると言ったほうがいいかな。辞めちゃうんじゃなくて。“first stint”です。stintというのは、F1でいうタイヤをチェンジするまでの時間。スタートして最初にタイヤを替えるまでがfirst、次がsecond、そして3回目で一つのレースが完結するんです。

奥田 なるほど。それで、first stintとして辞められた。そして、次のステップを上がっていかれるわけですけど、どのような状況だったんですか。

津川 楽しかったですねえ。実をいうと、貯金をしてたんです。1年間自力でF1について行きたいと思ってましたから。

奥田 それはどういうことでしょう。

津川 それまではF1をメカニックの立場でしか観てないから、観客側の視点をもちたかったんです。だから自力でF1を追いかけて観るための飛行機代とかチケット代とかを計算して、貯金をしてました。

奥田 F1を追いかけて観てまわろうとすると、ざっくりいくら位かかるんですか。

津川 当時で300万くらいですかね。でも、運よくテレビの仕事や雑誌の連載があったので、結局そのお金は使わなくてすみました。とくに雑誌の連載は、自由に書かせていただきました。ジャーナリストを職業として考え始めたのはそこからなんです。

奥田 ジャーナリスト津川の“売り”はなんでしょうか。

津川 最初の2年間は、メカについて一切書かなかったんです。なぜかというと、今までなかにいたわけですから、メカのことを書いたらバラすことになるじゃないですか。だから書かなかった。でもその雑誌が僕の文章をものすごく大切にしてくれて、書きたいことを書かせてくれたんです。おかげでF1に関する本を4冊も出せたし、文章の勉強もさせていただいた。

奥田 書きながら覚えるということですね。

津川 何でも書いていいと言ってくれましたから、逆に何をどう書こうかと考えました。感性を大事にしたくて、住まいがオックスフォードの郊外で裏が牧場なので、四季折々いろいろなことがあって、それを折り込んで書いてみました。結果的にそのことがすごくいい方向に働いてくれたと思います。

奥田 それで年を経て、津川という解説者というかジャーナリストというか、知見をもった情報発信者ができ上がってくるわけですね。

津川 いやあ、そこまで立派かどうかはわかりませんが……。

奥田 津川さんはジャーナリストとして、何を大切にされていますか。

津川 僕自身はF1を大切にするしかないです。とくにF1のコロニーですね。僕ね、ジャーナリストとしていろいろなところで情報収集してくるんですが、その時、エラい人とはほとんど話をしないことにしてるんです。ドライバーとも話さない。メカニックやエンジニアたちとだけ話すんです。それも世間話。だけど、そうやって話しているだけで、いろいろなものが入ってくるんです。あ、これ、自慢話ですね(笑)。
 

日本人に不足している生きることへの執着

奥田 当社の話になりますが、BCNは東アジアに土俵を拡げるということで、2010年から日中韓、台湾も含めた異なるカルチャーのなかで仕事を進めるということをしていますが、なかなか厳しいものがあります。津川さんは英国に住まわれて39年ですね。英国と日本ってカルチャーは違いますか。

津川 似てるけど違います。やっぱり獣を追いかける民族と、お米をつくる民族は完全にカルチャーが違いますね。

奥田 それはよく言われることですけど、実感されますか。

津川 実感します。まず、彼らは何がなんでも自分が生きることが先なんです。それから何がなんでも“死なない”んです。

奥田 死なないとはどういうことですか。

津川 彼らは“生きるために生きてる”んです。だから、いさぎよい散り際なんて絶対にない。彼らは散らされても散りません。いや、もちろん物理的な死はあるんですよ。でも気持ちは死なない。一方、日本人はすぐにあきらめる。で、それをいさぎよしと勘違いしている。レースでね、日本のライダーはよく死ぬんです。彼らは腕はものすごくいいんです。だけど、ここ(胸を指しながら)が弱い。気持ちが先に死んじゃうんです。日本人はそれがとても多い。「生きる」ことにすがりつかないと人間は生きていけないんです。

奥田 それは執着ということでしょうか。

津川 生への執着です。それがなくなったら人間は終わっちゃう。病気とかでもそうですね。ガンになった時とか、死を意識する瞬間て何度もあるはずなんです。でもその時、本人が生にすがりつくかどうかで、次の一息がつける。日本人はあまりにもそれが弱い。

奥田 日本人は生への執着が弱いんですか。

津川 それは生だけじゃなくて、根源への執着といった方がいいかもしれません、生以上のもの。生命だけではなくて、「生きることへの執着」かな。生きるということへの執着が、日本人は足りないと思います。

奥田 英国に住んでいらして、英国の人たちは強いと思われるわけですか。

津川 英国の人は強いです。もちろんつぶれちゃう人も山ほどいますよ。だけど、生き残っていく人がとてつもなく多い。野獣ってケガをしても自分でなめて治してまた生きていくじゃないですか。狩猟民族は野生なんです。だから、日本がそれと勝負するんだったら、そこを理解して立ち向かわないといけない。狩られたら終わり。エサになったらダメなんです。それを頭のなかに入れていかなきゃいけない。

奥田 エサになったらダメなんですね。

津川 先ほども言いましたが、僕はあまりにもモーターレーシングの世界で、たくさんの死をみてきました。知り合いや若いやつらも亡くなってますしね。だから強く思うんです。こんなところで死ぬなよ、もっと生きろと。

奥田 死の瞬間だけに執着するというのではなく、常に執着をもって生きていくということでしょうか。

津川 そうです。とにかく生きることに執着しなさいと。自分の人生は一回だけしかないんだから。だって、残るものは死ぬまでの間に何をしたか、だけじゃないですか。それは誰かに残すんじゃなくて、自分がlast stintの最後でパタッといった時に、「OK!」と言えるかどうかなんです。お金とかモノとかではなくて、自分が登ってきたラインを、自分が満足できるかどうかだけなんです。

奥田 そうですよね。納得しますね。

津川 いやあ、なんかエラそうなこと言っちゃった(大笑)

奥田 いやいや、いいお話をいただきました。OK!と言いたいですね。今日はありがとうございました。

こぼれ話

 初対面は東京・神田のドラゴンズファンが集う地下のとある飲み屋だった。ビールのジョッキを片手に、白い髪をちょんまげ結びにした、明るい声でよく喋る人だった。

 F1の世界に疎い私は「津川さん、よろしくお願いします」と月並みな挨拶を交わした。30分ほどして、ようやく30年近いF1のファンである私の友人が隣にきた。席に座るなり「あっ!津川さんだ」「そうだよっ」と応えると、「凄い人に会えたんだ」と叫ばんばかりである。こちらは呆気にとられてポカーンとしたままだ。

 ホンダがF1に戻ってきた。そんなテレビ番組を観ていたら、「ロンドン在住の津川さんにコメントをもらいます」と聞こえてきた。彼だ。画面に映る窓からは広々とした牧草地が見える。「ぼくの家の前は牧場が広がった素敵なロケーションなんだよ」という言葉を思い出した。

 津川哲夫をググってみた。父はあの有名な津川溶々で、推理小説雑誌『宝石』の元編集長、映画評論家としても知られる、とある。そこで質問をした。「どんなお父さんでしたか」「絶対父のような職業にはつかないように思ってましたね」「あれ、いま物書きでしょ」(大笑)。遺品を整理していたら、坂口安吾の名の借用書が出てきたそうだ。F1の奥は深い。

Profile

津川 哲夫

(つがわ てつお) 1949年、東京都生まれ。小学生の頃からモータースポーツに関心を寄せる。東海大学卒業後、レースに関わる仕事を探して横浜の老舗板金会社に入社。76年、27歳の時に富士スピードウェイでF1に出会い魅了される。翌年、単身渡英。当時のF1チーム「サーティース」のメカニックとして採用される。以後、41歳で引退するまで、いくつかのF1チームにメカニックとして所属。引退後は、F1のピットリポーターやF1関連の書籍を執筆し、日本におけるF1ジャーナリストとして名を馳せる。