経営とはあらゆることを取りなしていくこと 新たな道もその延長線上にある――第165回(上)

千人回峰(対談連載)

2016/07/28 00:00

西岡 隆男

ニコンイメージングジャパン 前社長 西岡隆男

構成・文/浅井美江
撮影/大星直輝

週刊BCN 2016年07月25日号 vol.1638掲載

 西岡さんには、ニコンにいらした時、幾度か取材にご協力をいただいた。現役を引退された後、久しぶりにお会いして「今は何を」とうかがったら、「家庭裁判所の委員です」と答えられた。究極ともいえる方向転換に驚いたが、どこか納得もした。対談の際、襟元にバッジが見えないので理由を聞くと、「そんなキラキラしたもの付けて」と誰かに言われて以来、裁判所から出る時に必ず外すのだという。こういうところが何とも西岡さんらしい。(本紙主幹・奥田喜久男)

2016.5.17/東京・千代田区のBCN22世紀アカデミールームにて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第165回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

人に関わり、経験を生かせる
選んだ仕事は家庭裁判所の委員

奥田 今日は家庭裁判所のお仕事を?

西岡 はい。午前中に。

奥田 何時から何時までなんですか?

西岡 基本的には10時から12時ですが、まあ、ちゃんとは終わらないですよね。

奥田 そうとうエネルギーを消費されそうですね。

西岡 仕事中はそうでもありませんが、終わるとぐったりきますね。とくに、午前と午後がつながると、終わった時はもう……。

奥田 委員になられてどのくらい経つのですか。

西岡 去年の4月からですから、14か月になります。

奥田 じゃあ、もうベテラン。

西岡 とんでもありません。一年ちょっとなんてまだまだひよっこですよ。20年以上やっておられるという女性の委員の方とご一緒したことがあります。

奥田 そもそも家庭裁判所の委員というのは、どういうお仕事なんでしょうか。

西岡 最高裁から任命された非常勤の国家公務員です。地方裁判所や簡易裁判所で行う民事と家庭裁判所で行う家事があって、僕は後者の方で、家事の委員です。裁判官や調査官とともに、当事者同士の話し合いを仲裁して問題の解決にあたります。

奥田 どうして委員になられたんでしょうか。

西岡 だいたい65歳くらいで現役を退くという目安を立ててはいたんです。社長を辞めたのが60歳で、それから2年くらい会長をやって。その後、1年ちょっとくらいは、みんながよくするような旅行だとかセミナーだとか行ってみたわけです。

奥田 蕎麦打ちとか?

西岡 男の料理教室とかも行きましたよ(笑)。でも、それはそれで楽しいんだけど、これをずっと70になってもやるのかなと思ったら、何だか違うと。いろいろ考えたなかで、前々から知っていた家庭裁判所の委員かなと思ったわけです。なぜかというと、学校を出て40何年か、生活のためとか家族のためとか、食べていくために働いてきたじゃないですか。でもここにきて、それはもういいかなと。大上段にいえば、そろそろ人のためになること、社会的な意味合いになることをやってみたくなったということでしょうか。それと、何か人に関わる仕事をしたいなと。

奥田 西岡さんは人好きでいらっしゃいますよね。

西岡 人好きというか、まあ自分一人だけで黙々とやるのではなく、いろんな人と話をしたりするのは好きですね。後は、これまでの営業畑なり管理職なりの経験を何か生かせるものをと思いました。

奥田 法曹界関係の人が委員になられるのは多いと思いますけど、経営者からというのは珍しいことなのでは?

西岡 確かに裁判官や書記官だったりとか、企業の法務部にいたという方が多いんでしょうけど、別にそう限られているわけではないですね。

奥田 まわりの方の反応はどうでした?

西岡 けっこうみんな反対でしたね。とくに近くに居た人ほど。そろそろ自分を解放してあげたらと。今さらそんな役割を負わなくてもいいんじゃないかとね。でも、家内は反対しませんでした。まあ、あなたが決めたことだからって。
 

30代で初めてかみ合った仕事への意識

奥田 西岡さんは立命館大学の法学部でいらっしゃいますでしょう。

西岡 そうです。

奥田 法学部なのに、なぜニコンを選ばれたのですか。

西岡 就職のジャンルは、金融とか商社とかメーカーとかあるなかで、メーカーを志向したんです。なぜかというと、自分たちが自信をもってつくり上げたものをビジネスにする、というのがいいなと思ったからです。だからメーカーもジャンルを問わず、いろいろ受けました。

奥田 では光学系ということではなく。

西岡 内定をいただいた何社かのうちに、当時の「日本光学工業」、現在のニコンがありました。最終的にどうするか考えたんですが、学生時代に写真部に一時期在籍していたこともあって、そもそも写真に興味があった。それで決めました。大阪出身なので、まわりからはなぜ東京のニコンなんだと言われましたけど。

奥田 ニコンに、何か惹かれるところがあったんでしょうか。

西岡 ありましたね。当時カメラをやっていた人間としては、ニコンは憧れでした。そこで働けるというのは、光栄でしたし、うれしかったです。

奥田 入社された時、トップを目指して入られたんですか。

西岡 まったくその気はありませんでした。

奥田 断言されましたねえ。

西岡 恥ずかしい話なんですけど、実は20代の頃って、何かこう仕事に対する意欲がもてなかったんです。大阪出身だし、長男だし、ということもあったのか、どこか「仮」の場所みたいな認識があったんでしょうか。

奥田 意外ですね。

西岡 25歳の時に結婚し、子どもができて、その後30歳の時にカメラ営業のトップとして、広島に転勤になって、部下ができたあたりから変わりましたね。

奥田 仕事と自分がかみ合った?

西岡 そうです。広島で中国四県を担当していたんですが、営業部門としては私がトップで、上がいないわけです。だから、そうならざるを得ないというか、仕事をまっとうするためには、そういう意識をもたざるを得なかった。

奥田 それまで手を抜いていたわけではないですよね。

西岡 手は抜いていません。目の前にあることは私なりに一生懸命やっていました。でも、自分なりにこうしようとか、仕事を進めていくうえで、本来もたなければならない意識、自分を向上させるための意識というのはなかったように思います。ほんとに恥ずかしい。上の役職になってから、部下や新入社員に、「もっとしっかりせんか、頑張れ」とか言っていたのを、広島に行く前の自分に言いたいくらいです(苦笑)。

奥田 でも、30代でガチッとかみ合って。

西岡 そうですね。だからそれ以降は、俗にいう自己研鑽には金をかけたつもりです。

奥田 そうやって磨かれた、ご自身の強みって何だと思われますか。

西岡 強みというか、特性として“振り返ることができる”あるいは、“第三者的に自分をみることができる”ことでしょうか。例えば、対話のなかで感情が高まってきて、怒りとか憎しみ、喜びがわき上がってきたとき、ある程度客観的にみることによって、相手との距離感を測りながら対話をするとか、そういう対応ができることでしょうか。(つづく)
 

最近購入されたニコンD500

 西岡さんご自身によるワンショット。D500の背景には大好きな歴史書が並んでいる。一時期、ストレスが溜まると本を買うことで解消されていたのだとか。D500右隣にある写真立ての愛らしい写真はお孫さん。
 

Profile

西岡 隆男

(Takao Nishioka)  1951年大阪生まれ。74年日本光学工業(現ニコン)入社後、カメラ営業部営業課を振り出しに、営業現場一筋。2004年4月、ニコンカメラ販売(現ニコンイメージングジャパン)取締役社長に就任。07年4月からニッコールクラブ会長を兼任。退職後、15年春から最高裁判所より任命され、非常勤の国家公務員である家庭裁判所の委員を務める。