サッカーもITも大事なのはスピードとコミュニケーション――第184回(上)

千人回峰(対談連載)

2017/05/22 00:00

岩澤 仁

岩澤 仁

アライズイノベーション 代表取締役社長CEO

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2017年5月15日号 vol.1677掲載

 対談の本編でもふれているが、私が岩澤さんと初めて会ったのはNY911のテロに遭遇したときのことだった。以来おつきあいが続いているが、いまも昔も変わらないのはそのソフトな笑みと控えめな語り口だ。その“岩澤節”について聞いてみると、「意識したことはないが、おそらく相手のことをすぐリスペクトしてしまうから」という。「おれが、おれが!」ではなく、チーム全体のコミュニケーションを大切にしながら事を成し遂げていく岩澤さんらしい解釈だと感じた。(本紙主幹・奥田喜久男)


2017.2.15 /東京都中央区のアライズイノベーション本社にて


 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第184回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

入社2日目で子会社へ出向?!

奥田 私が初めて岩澤さんにお会いしたのは16年前。ニューヨークの9.11テロに遭遇したときのことでした。

岩澤 いまは冷静に考えられますが、あのときは本当に戦争になって、日本に帰れなくなるんじゃないかと思いましたね。

奥田 二人とも日本生産性本部主催の「米国ネット取引・金融IT等ビジネスモデル研究調査団」というツアーに参加していたわけですが、マンハッタンに到着したのが9月9日でした。

岩澤 すごいタイミングでした。

奥田 何が一番印象に残っていますか。

岩澤 ニューヨーク以外では、それほど騒然としていなかったことですね。とてもお天気がよく、穏やかで……。でも、入国時はほとんどノーチェックだったのに、帰りはとても厳重なチェックをされたことを覚えています。大変な事件が起こったのに不謹慎かもしれませんが、旅そのものはとても楽しかったですね。

奥田 非常事態を共有したがために、メンバーの仲間意識がとても高まりました。尋常ではなかったですよね。

岩澤 半年に1回は飲み会をやってますし(笑)。

奥田 ところで、あの頃岩澤さんはどんな仕事をされていたのですか。

岩澤 JP情報センターで、システムの外販の副部長をしていました。外販といってもSEのまとめ役のようなものです。関わったプロジェクトは百数十件ありました。毎月のように新しいプロジェクトを立ち上げて、お客さんのところに通っていましたね。

奥田 JP情報センターには新卒で入社されたんですか。

岩澤 1979年4月に日本紙パルプ商事に入社して、IT部門、昔は電算室といわれていましたが、そこに配属されました。当時、優秀な新人は出版用紙、新聞用紙、海外本部といった部署に配属され、ダメなやつが電算室みたいなところに、そういう空気がありましたね。

奥田 そうなんですか。

岩澤 「おれはダメなのか」と思いましたもの(笑)。大学での専攻は経済だったのですが、コンピュータ概論の成績が「優」だったことと珠算2級の資格をもっていたこと、それから、サッカーをずっとやっていたため体力があって使い減りしないと思われたのが、電算室に配属された理由だったようです。あの頃は、残業100時間とか200時間ということもざらでしたから。

奥田 そうでしたね。

岩澤 私は4月1日付で入社して、子会社のJP情報センターの営業開始日が4月2日。つまり、入社して1日で出向です。いきなりのことで、半年くらい落ち込んでいたんですよ。

奥田 新入社員としては複雑な気持ちですね。

岩澤 もちろん籍は日本紙パルプ商事にあるのですが、その頃は情報処理部門を別会社にすることが流行っていたんです。ITのコストを把握することと、そのノウハウを外部にも展開しようという目的がありました。

 私は外販の部隊に入れられて、全国200以上のお客さんの現場を回り、倉庫での棚卸しの指導をしたり、入出庫システムをつくったりしていました。

アマゾンより先にホスティングサービスを展開

奥田 システムは何を使っていたのですか?

岩澤 当時、NECの汎用機ACOS850を使っていましたが、私の外販部門では東芝のオフコン(TOSBAC1350)とカシオのオフコン(Σ8700シリーズ)を使っていました。

 その後、オフコンの時代が終わり、パソコンのWindowsが日本に広がっていったときに感じたのは、もう系列の大きな企業だけがマーケットではないということでした。ことにニューヨークに行ったときは、多くの小さな企業を訪問できたことで、いろいろなことをやっているんだなと実感しました。

奥田 いつからシステム開発にパソコンが使われるようになったのでしょうか。

岩澤 Y2K(2000年)を過ぎるまではオフコンで頑張っていたのですが、その後、パソコンを使うようになります。しかし、初期のWindowsはトラブルが多く、例えば真冬の北海道などでは、寒さや結露でブーティングしないトラブルがよくありました。そのたびに出張して、3日か4日つぶれて、帰ってくると別の場所でまたトラブル発生で出張……。そういう繰り返しがあって、経費はかさみ、残業は増えるという状態で困っていたんです。

奥田 当時は、WordとExcelを一緒に開くと固まってしまうようなこともありましたね。

岩澤 そうですね。そんなとき、ニューヨークにも一緒に行き、当時、日本経済新聞社からQUICKに出向していた田辺渉さんが、ブレードサーバーを買わないかと声をかけてきたんです。よく聞いてみると仮想サーバーだったのですが、高価なのですぐには買えません。そこで会社に掛け合い、ブレードサーバーをQUICKのデータセンターに預け、とりあえず10個くらいに小分けしてシェアして使いたいと。バックアップも一発でできるし、出張に行かなくてもすむ。そのうえ、QUICKの部隊もいるから面倒をみてくれるという話をしたんですね。

奥田 それはいつ頃の話ですか?

岩澤 02年にその話をいただいて、1年くらい考えて、これはいけるなと思って決裁をとり、04年にクラウドホスティングサービスの事業をスタートさせることになります。

奥田 ずいぶん早い時期のスタートですね。

岩澤 アマゾンのサービスが06年スタートですから、2年も早いんです。

奥田 それはすごい!

岩澤 そうしたら、あれよあれよという間に、560サーバーまで増えました。

奥田 04年というと40代後半ですね。

岩澤 ちょうど部長になり、上の会議に出られるようになった頃です。

奥田 その事業の収益はどうだったんですか。

岩澤 ざっくりいえば、初期投資額の5倍ほどの粗利が出ました。

奥田 大変な利益をもたらしたわけですね。

岩澤 いえいえ、もともと仮想技術に興味があり、そういう新しいもの好きの思いつきがたまたま当たったというだけのことです。(つづく)
 
サッカーもITも大事なのはスピードとコミュニケーション――第184回(下)
アライズイノベーション 代表取締役社長CEO 岩澤 仁

 

趣味はサッカーと料理


 岩澤さんの趣味は、小学生時代から現在まで続けているサッカーと休日につくる本格的な料理。奥様と一緒につくることもあるそうだ。なかでもお得意はイタリアンとのこと。美味しそう!

Profile

岩澤 仁

(いわさわ ひとし)
 1956年6月、神奈川県生まれ。79年、日本紙パルプ商事入社。JP情報センターに配属され、主に外販部門を担当。紙流通業に特化した業務パッケージソフトの開発と販売に従事。2004年にクラウドサーバーによるホスティング事業を全国に展開。これを機に東京システムハウスと連携し、本社および全国ユーザーのマイグレーション作業やオープンソースベースのパッケージソフト開発を推進。13年、JP情報センター代表取締役社長。16年、アライズイノベーション立ち上げと同時に代表取締役社長CEOに就任。現在に至る。