「カーリング」というスポーツがある。日本では、2006年に開催されたトリノ五輪で、「チーム青森」という女子チームが7位入賞の快挙を果たし、一気に認知度が高まった。このトリノ五輪から、ワイヤレスのピンマイクが試合中の選手に装着されるようになり、試合中の駆け引きや、時には選手のため息までもが、スポーツ中継を観ている私たちにライブで伝わるようになった。マイクの装着をIOCに提案したのは、「オーディオテクニカ」である。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.9.4/東京・文京区湯島のテクニカハウスにて】

2014.9.4/東京・文京区湯島のテクニカハウスにて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第121回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

「音」で楽しむオリンピック競技

奥田 オーディオテクニカは、オリンピックに関わっておられますよね。いつからですか。

松下 1996年のアトランタ大会が始まる数年前に、今のパナソニック、当時の松下電器産業さんから「自分たちは映像をサポートするので、御社でマイクサポートをやりませんか」と声をかけていただいて、お引き受けしました。

奥田 へぇ~。それはなんのためのマイクなのでしょう。

松下 「スポーツ収音」といわれるものです。陸上選手の足音やアーチェリーの弓が飛ぶ音、あるいは近代五種競技の馬の蹄音など、臨場感を出すためのマイクです。

奥田 では、私たちがオリンピックの番組を観るとき、そこから聞こえてくる音は御社の製品で収音された音というわけですね。

松下 そうです。例えば三段跳びのジャンプの音は砂の中に、フィギュアスケートでは氷の下にマイクを埋め込んで録っています。珍しい例では、カーリングがあります。2006年のトリノ大会から、私どもが始めたのですが、試合中の選手の胸元に当社製品の小さなワイヤレスマイクを装着し、腰に発信器をつけて、試合中の様子をライブで伝えることができるようにしました。それまでカーリングは観てもよくわからないということで、あまり人気がなかったらしいのですが、この大会をきっかけに日本でも興味をもつ人が多くなったようです。とくにトリノでは、当時の「チーム青森」が予選で強豪カナダを破ったことで注目されて、私どもにとってはラッキーでした。

奥田 それらのマイクの仕掛けは、どの段階で企画をするのですか。

松下 オリンピックが開催される2年くらい前に、競技ごとにマイクロホンをどこにどういうふうにセットするかというマニュアルを私どもで作成します。実は、オリンピックの場合は、競技ごとに担当の国があるんです。例えば、卓球だったら中国、柔道や体操は日本、カーリングはカナダというように音だけでなく映像も含めて、みんな担当が決まっています。私どもは作成したマニュアルを基に、それぞれの担当の国のTVチームやボランティアの方々と話をして、具体的に詰めていくというわけです。

奥田 例えば、次の大会では砂の中にマイクを埋めてみようかとか。

松下 そうです。トリノ大会のカーリングがよい例ですが、毎回、私どものほうからサウンドエンジニアに対して新しい提案をしています。モノラルからステレオ放送になり、さらにサラウンドになるというように、音の技術が進化するにつれて、大会ごとに着実にいろいろ実績を重ねてきました。

奥田 それは日本のものづくりの誇りですね。

松下 現在の契約は2016年のブラジルまでですが、私どもの強みは、一つのことを始めたらなかなかやめないというところにあります。オリンピックのサポートだけでなく、東京フィルハーモニー交響楽団に対してももう20年以上、協賛を続けています。とにかく一度始めたら簡単にあきらめない。これは私たちのブランドイメージにも繋がっているのではないかと思っています。

奥田 草創期のことを少しおうかがいしたいのですが、そもそも創業されたのはいつですか。

松下 1962年です。私の父、松下秀雄が創業しました。父は福井の出なのですが、一番上の兄が東京の学校を卒業して実家に戻ってきたときに持ち帰った蓄音機と何枚かのクラシックレコードを、小学生だった父が大変気に入り、繰り返し繰り返しレコードが擦り切れるまで聴いたのだそうです。

奥田 相当な音楽好きだったと……。

松下 クラシックが好きだったのだと思います。クラシックであれば、ベートーベンやブラームスの交響曲から、無伴奏チェロまで幅広く聴いていましたから。
 

クラシック好きが嵩じてコンサート開催から創業へ

奥田 お父上は、その後どうされましたか。

松下 1951年に福井から上京して、叔父の紹介でブリヂストン美術館に就職しました。そこでもクラシック好きで通っていたようなのですが、あるとき、美術館の二代目オーナーである石橋幹一郎さんに、「松下君はそんなにクラシックが好きなら、東京駅周辺に勤めるサラリーマンに向けて、コンサートを開いてはどうか」といわれて、レコードコンサートを開催するようになったのだそうです。当時のレコードは高額な商品で、都内に土地が1坪買えるほどの値段。一般の人はなかなか買えない時代だったこともあって、コンサートは大好評だったようです。

奥田 それはすばらしいですねえ。コンサートはお一人で企画されたのでしょうか。

松下 いえいえ。石橋幹一郎さんはご自分でもピアノを弾かれますし、文化人や指揮者の方とも懇意になさっていましたから、父が一人でやっていたのではなく、交友を結ばせていただきながら開催していたと聞きました。

奥田 そのときに音響関係の人たちにも巡り合った、と。

松下 そうです。コンサートの人気が出るにつれて、いろいろな音響関係の方々が試作品や新製品を持ち込んで「使ってみてくれないか」「聴いてみてくれないか」と。父はそこで人脈を培ったようです。

奥田 そして、オーディオテクニカを創立された。おいくつのときでしたか。

松下 父が42歳の時ですね。

奥田 独立された理由は? 事業欲とかお金を儲けることに興味があったのか……。

松下 それよりも、音楽が好き、オーディオ機器が好きで、それを仕事にしたいという夢があったのではないでしょうか。

奥田 それはとてもラッキーというか、幸せですね。しかし、それまでの会社員から、ものをつくるほうに回られたわけですが、抵抗感はなかったのでしょうかね。

松下 当時は今と違って、スピーカーをユニットで買って、秋葉原に行って真空管やコンデンサを選んでと、自分でつくる時代でした。『ラジオ技術』という雑誌にいろいろな回路図が紹介されていて、それを参考にしてから自分が気に入ったものをつくるといったような……。だから、ものづくりに対しても、そんなに抵抗感はなかったと思います。(つづく)

 

台湾生まれの印鑑は書類によって使い分ける

 松下社長が台湾のグループ会社を訪れた際、空いた時間に街を散歩していてふと思い立ち、つくってもらったという印鑑。どちらも姓名が篆刻されているが、書類によって、座りのいいほうを選んで押印しているのだとか。
 

 

会社の窮地を救った販売の教え

 ドルショックで会社が苦境にあったとき、創業者・松下秀雄氏は、松下電器で定年を迎えた敏腕営業所長・柏木勁(つよし)氏を「是非に」と迎えた。柏木氏の指導は厳しくも懇切丁寧で、販売は見事に軌道に乗ったそうだ。当時の青焼きを松下社長がまとめた1冊。