日本刀づくりの第一人者である吉原國家さん。若い頃から刀鍛冶一筋ということで、お会いするまではさぞや厳めしい方ではないかと想像したが、当方の初歩的な質問にもていねいに答えてくださる穏やかなお人柄だった。しかし、お話をうかがっていると、本物のプロの努力というものと、ものづくりを究めるストイックな姿勢が、私に向かってぐいぐい迫ってくるかのようだ。自身に厳しく、妥協を許さない。まさに、ものづくりの本質を垣間みた。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.7.23/東京・葛飾区西水元の日本荘鍛刀所にて】

2014.7.23/東京・葛飾区西水元の日本荘鍛刀所にて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第118回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

小学生の頃から祖父の工房に入り浸る

奥田 吉原さんは37歳にして、刀匠(刀鍛冶)の最高峰である新作名刀展無鑑査に認定され、國家を襲名されています。いくつのときから修行を始められたのですか。

吉原 最初にいたずらしたのは、小学校1年生のときです。明治生まれの祖父がやっているのをみて、興味をもちました。おもしろかったですね。仕事の手伝いを始めたのは、中学に入ってからです。

奥田 お祖父さんが初代で、お父さんが2代目ですね。

吉原 そうです。私が3代目です。実は、祖父はもともと鍛冶屋の17代目なんです。

奥田 鍛冶屋と刀鍛冶は違うんですね。

吉原 別ですね。祖父は茨城で普通の鍛冶屋をやっていました。農具や包丁などをつくっていたと思います。

奥田 それが、なぜ刀鍛冶に?

吉原 昭和8年に、栗原彦三郎という代議士が日本刀鍛錬伝習所というものをつくりました。軍刀が足りなくなり、刀鍛冶の養成機関が必要になったんですね。祖父は、その伝習所の1期生なんですよ。

奥田 鍛冶屋さんだからできるだろうと。

吉原 そう、できるんですよ。明治の鍛冶屋は、刀と同じ材料や道具を使っていました。使い方はわかっていますが、刀をつくる手順を知らないので、それを習いに行ったということです。ですから、祖父はすぐ師範になって後輩を教えていたそうです。

奥田 吉原さんは、そのお祖父さんの横で、仕事をみていたんですね。

吉原 そうです。講和条約が結ばれて、ようやく作刀の許可が下りたのが昭和26年です。ちょうど私が小学校に入った頃ですが、戦後、日本刀は武器とみなされて、それまではつくることが禁じられていました。このときつくられた「講和記念刀」から、日本刀は武器から美術工芸品になったわけです。

奥田 今、刀鍛冶の数はどのくらいですか。

吉原 私が常務理事を務めている日本刀文化振興協会の会員は100人強ですが、現役で本職として活動しているのは恐らく20人以下でしょう。残りの人は、作刀の許可をもっているだけということです。トップクラスになれば刀だけで生活できますが、それ以外はちょっと難しいのが現実です。

奥田 そうなると、技術の伝承が難しくなってきますね。

吉原 今は、日本刀の愛好者が自らつくって技術を残していくかたちになっていますね。

奥田 必ずしも家系だけでなく……。

吉原 家系でも何人かはいますよ。明治くらいから続いているところが。でも、刀鍛冶としてはっきりわかるのは、古いところでも4代か5代でしょう。明治維新の廃刀令で多くの刀鍛冶が刃物鍛冶に転身し、昭和20年の敗戦で製造禁止ですからね。うちも戦後は、しばらく鉄工所を経営していたんです。

奥田 ところで、刀をつくる技術というのは難しいものですよね。

吉原 慣れてしまえば、そんな難しいことはないと思います。いいものをつくるのは難しいかもしれないけれど、つくるだけならそんなに難しくないですよ。

奥田 その「いいもの」の条件は?

吉原 欠点のない、刀として「いいもの」です。具体的には、姿かたち、見た目がいいこと。地金、つまり肌がきれいなこと。

奥田 女性と同じですね(笑)。

吉原 後は焼き刃、刃文(はもん)の出来ですね。表面に白く波のようになっているのが刃文で、いろいろな種類があり、さらに刃文の縁のところに「沸(にえ)」とか「匂(におい)」とかいうものが現れるのですが、それを含めて出来が左右されます。加えて、見た目の明るさですが、鉄を研ぎあげたとき、ちょっと透き通った感じの青さがあるというのが一番いいですね。
 

一つの土をつくるのに1年以上かかることも

奥田 刃文は、プロがみれば優劣をきちんとつけることができるのですか。

吉原 いい悪いはわかります。少なくともムラがあるのは欠点ですから。もちろん、思った通りに焼けないことはありますが、刃文というのは絵描きが絵を描くようなものですから、本当は思った通りにできなければいけないんです。

奥田 刀の表面に土を塗って、焼くわけですよね。素人考えだと、土を塗ってもポロっと落ちちゃうんじゃないかと思うのですが。

吉原 落ちるような土をつくっちゃダメなんですよ。刀を真っ赤に焼いて、水の中にジュッと入れても落ちない泥をつくらなければならないんです。この泥を焼刃土といい、配合は秘伝といえば秘伝ですが、講習会などでは教えています。でも、なかなかみんなうまくできないですね。

奥田 配合が難しいんですね。

吉原 焼刃土は、粘土と砥石の粉と炭の粉を混ぜ合わせたものです。基本的にはその3種類の配合割合です。ただし、備前伝、相州伝、大和伝といった技法の違いによって刃文の形が異なるため、当然配合も変わってきます。粘土の質によっても配合が変わります。どの地方の粘土を使うかによって配合が異なるので一つひとつ研究しなければいけないんですよ。そうすると、一つの土をつくるのに、1年、2年かかります。

 そして、自分の思うような刃文を入れるために、どんな配合の土にすればいいかということは、試してみなければわかりません。試すには刀をつくらなければならない。試したところでたいがいはダメになります。作刀は年間24本、1か月に2本までしか許可されないこともあり、次々とつくれるわけではありません。だから、1年くらいすぐ経ってしまうのです。

奥田 失敗した刀の鉄は使えるんですか。

吉原 溶かして使います。刀はつくる過程で材料の10分の1くらいの量になっていますから、10回失敗すると、1本分の材料になる計算ですね(笑)。炭は全部燃えてなくなっていますから再利用というわけにはいきません。刀1本に10俵の炭を使ったとしても、10本で100俵です。それでも、できればいいほうです。(つづく)


初代の祖父から受け継いだハンマー(向槌)


 戦前は2代目の父君が使い、戦後は修行時代の吉原さんが使ったハンマー。ちょっと手にしただけで、刀鍛冶の仕事がいかに重労働かが実感できる。もちろん、力だけでなく、繊細な技術と確かな目が、刀匠には求められるのである。