音楽に、プラハに魅せられて――第43回

千人回峰(対談連載)

2010/03/29 00:00

中島良史

作曲家・指揮者 中島良史

音楽が好きだった

 奥田 そもそも、先生と音楽との出会いはどういうものだったのでしょうか。

 中島 私は1944年生まれです。昭和19年、終戦の1年前です。疎開から帰って東京郊外の三鷹に住んでいました。幼少の頃は何もない時代だったですけど、父が蓄音機を持っていて、SP盤のクラシックのレコードが5、6枚あって、耳をくっつけるようにして、姉とよく聴いていました。ラヴェルの『ボレロ』なんかもありました。

 奥田 その辺りが音楽と接した原点ということですか。

 中島 そうです。蓄音機のまがい物を作って、自分で歌って喜んでいましたね。

 奥田 楽器との出会いはいつ頃ですか。

 中島 小学生の頃に、下の姉が足踏み式のオルガンを買ってもらい、ピアノは私が高校生の時でした。

 奥田 どんどん音楽の世界に入っていくわけですね。

 中島 小学校4年生の時に「音楽クラブ」を作って、ガリ版で『音楽新聞』を発行して、同級生に配ったりしていましたよ。

 奥田 ほう、それはどんな内容だったんですか。

 中島 聴いた曲の批評とか楽器のことなどだったと記憶しています。もうはっきりとは覚えてませんが。それから、全校に一人だけピアノを弾く子がいましたね。白い洋館に住んでいて、憧れの女の子でしたね。

 奥田 それも音楽に進まれる動機の一つだったのでしょうか。

 中島 それはあったかもしれませんね(笑)。6年生の頃には自分で曲も作っていました。とにかく音楽が好きだったんだと思います。姉の影響もありましたが。

無機的な記号をいかに面白いものに変えていくか

 奥田 それから音楽への道を歩まれ、作曲・指揮へ入っていかれるわけですね。

 中島 そうです。国立音楽大学の作曲科で学びました。当時、国立音大の学長は、NHK交響楽団を育てられた有馬大五郎先生で、ある時、「なぜ国立音大には指揮科がないのでしょう」というような話になった時、先生はあの大柄な体躯から「お前、指揮なんかは学校で教えるもんではない」とおっしゃって、深い感銘を覚えました。

 奥田 それはどういうことなのでしょう。

 中島 人間的なことをおっしゃったのだと思います。指揮というのは、作曲の勉強も楽器のことも知り尽くして、メカニックなことも含めて知らなくてはできません。そのうえに歴史的なこと政治的なこと民族・生活など諸々の事柄を理解して、はじめてできるものだと思っています。

 奥田 そういうバックボーンがあって、音楽に深みが出るということでしょうか。

 中島 そうです。その他にも作曲家の人間的な赤裸々な面も学ぶ必要があります。

 奥田 ただ音楽のテクニックが優れているだけではないのですね。

 中島 作曲家の書いた無機的な音符を、面白く仕上げていくわけですから、やはり指揮者の人間的な要素がモノをいってくるのだと思っています。

 奥田 確かにそんな気がしますね。

 中島 有馬先生は日本の音楽に多大な貢献をされていますが、世界的にも「ドクター有馬」として著名な方でした。オットマール・スイットナー氏をNHK交響楽団に呼んだのも有馬先生の功績です。私もかつてザルツブルグでオットマール・スイットナー氏に学んだことがあります。

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