国の安全のため、日本は独自のセキュリティソフト持つべきだ――第25回

千人回峰(対談連載)

2008/07/22 00:00

成田明彦

成田明彦

セキュアブレイン 社長

CAD/CAM売るためアルゴグラフィックスに

 奥田 アルゴグラフィックスにはどんないきさつで?

 成田 帰国したのは1982年。ユニバックはどんどん大型機を指向しているのに対し、日本市場ではメインフレームだけではなく、業務処理に必要な端末機を含めたソリューションが求められていました。しかし米国本社からは、メインフレームの販売に集中しろという圧力がかかり、それが原因で社内対立が起き、83年から84年にかけて大量の退職者が出て、アルゴ21やアルゴグラフィックスの設立に至ったわけです。

 私の直接の上司だった人がアルゴグラフィックスを設立したのですが、CAD/CAMに力を入れるので、お前さん来てくれよと声をかけてくれました。1985年のことだったですね。製造業担当として、私もCAD/CAMにはそれなりに本気で取り組んでいましたので、この話に乗ることにしたんです。

アップルでは5年間で売り上げを10倍強に

 奥田 アップルに移られたのは1989年でしたね。

 成田 ある日突然、ヘッドハンターから電話がかかってきたんです。アップルで営業の責任者を探している、という話でした。最初は断ったんですよ。アルゴグラフィックスに入って3年足らず、会社はまだ赤字で、こんな状態じゃ辞められないと思ったからです。

 ただ、そのヘッドハンターはしつこいというか、粘り強いというか、何度も何度も電話してくるんです。それで、根負けして一度会ってみましょうかということになったんですが、会ってみるとなかなか面白い人でした。私より20歳は年上、豊富な人生経験を感じさせる人で、ついに説得されてしまいました。ちょうど、アルゴのほうは黒字化が見えてきたことも背景にあって。

 奥田 1989年というとアップルが伸び盛りに入った頃ですね。

 成田 純粋の外資系の会社というのは初めてだったけれど、別に違和感は感じませんでしたね。アップルには5年ちょっといたのですが、この間に売り上げを約10倍に伸ばしました。89年の売り上げは100億円ちょっとで、キヤノン販売(現・キヤノンマーケティングジャパン)が約70%のシェアを持っていました。単独1社にここまでのシェアを持たれると、アップルの営業部門の影は薄くなる。現に、キヤノン販売の担当者からは「お前さんのところは何もしなくていいよ」と言われたこともあります。

 私としては、販売網の強化を図ることで、結果としてキヤノン販売のシェアを適正な水準にしようと考え、販売店会を組織、情報をきちんと流す体制を作っていきました。

 じつは、アップルを辞めるとき、この販売店会の幹事会社が中心になって送別会を開いてくれたんですが、「お前、何を考えてるんだ、辞めちゃダメだ」との声が相次ぎ、送別会が慰留会になってしまいました。でも、私としてはうれしかったですねぇ。

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