数ある内田洋行の子会社のなかで、株式公開にこぎ着けたのは、私の知る限りウチダエスコだけである。これだけでも、関社長が優れた経営者であることを証明しているわけだが、肝炎と闘いながら、社長業の傍らで社会福祉活動にも取り組んでいたという話には驚いた。機械だけでなく、人間のアフターサポートにも取り組んできたわけだが、「人のアフターサポートにはさらに力を入れていきます」と、75歳とは思えない元気さで力強く語ってくれた。【取材:2008年 3月14日、BCN本社にて】

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第23回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

小学校1年生の時満州に

 奥田 波乱に富んだ人生を送ってこられたようですね。戦前には満州で過ごされた経験あるとか。

 関 はい。父は岡山市で歯科医をやっていたのですが、軍関係者から、満州には歯科医がいないので来てくれないかという依頼を受け、1941(昭和16)年に、母と私を連れて満州に出向きました。私は6人兄弟の末っ子で、まだ小学校1年生でした。小さいから日本に残すわけにもいかないということだったようです。

 患者は兵隊さんばかりで、将校もよく来てました。父は、満州へ行った翌年の1942年に病死、それで岡山に引き揚げることになって…。ある将校から「早く帰国しなさい。いまに帰れなくなるから」と忠告してもらったことをよく覚えています。昭和17年といえば、新聞は「勝った、勝った、また勝った」と大はしゃぎしていた時代ですが、軍人、とくに先の見える将校は事態を見据えていたんですね。
 

手回し計算機のメーカーに入社、内田洋行に出向

 奥田 社会人のスタートはどんな具合だったんですか。

 関 高校を卒業して、長兄が経営していた三陽商会という機械工具を扱っている会社に入ったものの、事情があって退社、1957年に太陽計算機という手回し計算機を作っている会社に入社しました。当時は、タイガー計算器、東芝、日本計算器と太陽計算機の4社がメーカーとして存在していて、太陽計算機の総発売元が内田洋行さんでした。

 手回し計算機というのは、扱うのがけっこう難しい機械で、内田洋行の社員だけではこなしきれない。そこで、納品時の説明、メンテナンスなどメーカーの人間がやって欲しいということになり、1958年に内田洋行の大阪店に出向しました。

 奥田 なるほど、内田洋行とのつながりはその時できたのですか。

 関 ええ。1962年には同社の東京店に転勤、「太陽の関です」と名乗って事務機店や文具店を回ってました。
 

電卓の登場で暗転、メンテ会社を設立

 奥田 売れ行きはどうでした?

 関 まあまあだったんですが、1964年にシャープから電卓が発売されると、一気に暗転していきました。

 奥田 ああ、あの電卓戦争に巻き込まれたわけだ。手回し計算機、電動計算機じゃ、勝てるはずないですね。

 関 内田洋行が総発売元を降りると言い出したのが1964年9月でしたが、在庫は一杯持っているし、メンテナンスもしなければならない。それで内田洋行から、社員にはできないが、将来の面倒は見る、独立していままで通りの仕事をしてくれないかと頼まれまして、タイヨウ事務機サービスを設立しました。社員は私も含めて3人でした。

 文具店などに出入りしていましたので、ジアゾ式複写機、タイプライターなど見よう見まねで修理を覚え、手を広げていきました。

 奥田 マルチベンダーへの道は創業期から持っていたのですか。

 関 当時は明確に意識していたわけではありませんでした。そうしたなか、1969年には内田洋行自身が電卓に進出、ICを使ったUSAC10Bを出しました。IC電卓は業界初でしたが、結構メンテナンスが大変で、お前のところでやってくれないかという話になった。それで、1970年7月に、内田洋行の出資も仰ぎ、商号をウチダサービスに変更しました。

[次のページ]

次へ