「ロマン」と「ソロバン」の両立を目指す――第15回

千人回峰(対談連載)

2007/10/09 00:00

高橋啓介

インターコム 社長 高橋啓介

大量注文が舞い込み、順調に立ち上がる

 奥田 立ち上がりは順調だったんですか。

 高橋 思いのほか順調でした。6月に創業、11月に8ビット用のエミュレーターソフト3種類を発売しました。このソフトはそれほどでもなかった。でも、1983年4月にIBMのホストと3270端末を結ぶMS-DOS対応を図ったエミュレータを出して、これが大好評。コンピュータメーカーからものすごい量の注文をもらいました。

 このソフトが契機になって、高橋のところは通信ソフトをやってるということが知られてきたんでしょうね、三菱銀行や建設省(現・国土交通省)から通信のコンサルタントをやってくれないかという話が飛び込んできたんです。

 三菱銀行からは、「全国銀行協会(全銀協)の幹事会社になったんだが、第三次オンラインのためにネットワークの規格をまとめないといけない、力を貸してくれ」という依頼を受けました。それで、通信のコンサルタントとして、さまざまな会議に参加しました。ですから、新規格のプロトコルは全部分かるんです。

 1984年4月には、全銀協標準通信手順回線ライブラリソフトとして「ZTERM」を発売し、IBMをはじめ日立、富士通、シャープ、キヤノンなど、NECを除く主要メーカー15社にOEM供給しました。

社員の熱意に負けてゴーサイン出した「まいと~く」

 奥田 企業向け通信ソフトで立ち上がったわけですね。ただ、これもヒット商品になった「まいと~く」は企業向けとは違いますね。

 高橋 営業マンのなかに、パソコン通信にはまっている社員がいて、これからはコンシューマ向けの通信ソフトも重要になる、うちでもやりたいと言ってきました。私は、企業向け通信のことは分かるけど、個人向け通信のことはまったくの門外漢。それで、ちょっとためらっていたんですが、「金は出すけど、人は割けないぞ。それでもやるならやってみろ」という条件でOKを出したんです。それで彼は、漫画家のすがやみつるさんとか大学の先生などパソコン通信で知り合った人間に応援を頼み、毎日のように深夜まで、侃々諤々の議論をしながら開発していました。

 開発に約2年かけ、1986年11月に発売にこぎ着けた。マニュアルについては私が注文を出し、200ページ余りにもなる分厚いものを作らせました。コンシューマの世界はまったく知らないだけに、どんなクレームがくるか分からない、それが怖かったので懇切丁寧に説明させたんです。まあ、それくらい慎重だったということですね。

インターネット、Windows 95で暗転

 奥田 創業5年で、柱になる3つのソフトが揃ったわけですね。

 高橋 1996年までは、怖いものなしで、こんなに儲かっていいのかというような状態が続きました。96年の売上高は34億円、税引き前利益は8億円でした。人が増えるものですから、事務所もすぐ手狭になり、事務所は京橋、御茶ノ水、上野と変えました。

 奥田 「96年までは」とおっしゃいましたけど、何があったんですか。

 高橋 インターネットの普及と、Windows 95の登場という2つの要因が重なったことが大きかったですね。本来、OSの交代というのは、われわれの事業にはウェルカムのはずなんですよ。現に私もMS-DOS対応で先手を取り、事業の基礎を作りました。でも、インターネットとWindows 95の時はまったく違いました。

 奥田 具体的にはどう違ったんですか。

 高橋 インターネットは、私の予想をはるかに超えるスピードで普及していきました。「まいと~く」は、日経BPのPCワールドエキスポで、9年間金賞を受賞していたんです。それが96年にはネットスケープにトップをさらわれました。当然、10年連続と思っていただけに、ショックは大きかったですよ。

 やられた! というより、インターネットがそこまで身近になっているのに、それに気づかなかったことが問題だと思いました。作れば売れる時代が続いてきただけに、甘えてしまっていたんです。

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