日・台の架け橋から、音の文化の守護神へ――第14回

千人回峰(対談連載)

2007/09/25 00:00

韋文彬

韋文彬

日本エム・イー・ティ 社長

メカトロニクスの技術移転を構想

 奥田 当社も台湾には早くから注目しており、工業技術研究院については1993年5月17日号の「台湾に見るコンピュータ産業」で取り上げています。韋社長は、ここに関わっていたんですか。

 韋 はい。13年ぶりに台湾に戻るに当たっては、デジタル工業は、信越化学の子会社である信越エンジニアリングに売却する一方、新たに日本METを設立、工業技術研究院と電子工業研究所にはコンサルタントというか技術顧問のような形で協力することにしました。

 奥田 社名のMETとは、何のイニシャルなんでしょう。

 韋 メカトロニクス・エンジニアリング・トランスファーの略で、当時日本のメカトロニクス技術は相当進んでおり、私もその先頭を走っているとの自負を持っていましたから、技術移転のお手伝いができないかという意味を込めました。

技術顧問として日・台を結ぶ

 奥田 具体的にはどのような活動をなさっていたのですか。

 韋 最初に手がけたのは、電子工業研究所の半導体工場の建設でした。半導体の製造にはクリーンルームとかケミカルステーションを作る必要があります。だけど、台湾にはそうした技術はまだありませんでしたから、私が日本空調とか日本真空などのメーカーを紹介しました。

 1982年には、工業技術研究院の中で、これからはシステムやパソコンも重要だぞという認識が高まって、電脳部門を新設しました。その際にもいろいろお手伝いしましたね。

 奥田 先の記事の中にある電脳輿通訊工業研究所(電通所)ですね。

 韋 正式名称はそうでした。1981年にはIBMが16ビットのIBM・PCを発表していましたが、工業技術研究院では、そのIBM・PCのBIOSを独自に開発したんです。ただし、IBMからはクレームがつき、対応に追われていました。

 ただ、IBMの中にも台湾を助けてやろうよという意見を持つ人もいました。後にIBMの副社長になる方が代表格で、IBMの技術者と弁護士を連れて工業技術研究院を訪ねてくれて、こういうふうな形だとパテントに触れるよなどと、詳しく教えてくれました。この方のおかげで、台湾のパソコン産業はスタートを切れたとも言えます。

 ハードウェアは、インテルのCPUを買ってくればよいので、比較的楽に開発できましたが、問題はソフトウェアでした。これからはMS-DOSだろうということで、私と何人かで西和彦さんを訪ねました。西さんは、日本マイクロソフトだけでなく、アジア・パシフィック部門の長も兼ねておられた頃で、古川亨さんにもこの時お会いしました。成毛真さんは入社したばかりだったと思います。

 ビル・ゲイツ氏を紹介してもらい、エクスクルーシブ(独占)で工業技術研究院にライセンスを供与してくれないかとお願いしたんですが、ダメだといわれました。当然といえば当然ですがね。

 この当時の工業技術研究院には、20歳代の俊英が集まっており、極めてアグレッシブな活動を展開していました。後に企業経営者として成功した人間が何人もおります。

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