「運には恵まれました」と述懐する楢葉勇雄さん――第13回

千人回峰(対談連載)

2007/09/10 00:00

楢葉勇雄

大塚商会 元副社長 楢葉勇雄

巻き起こる社長批判と見事な収拾策

 奥田 「オフコン倍々作戦」のことは後で聞くとして、76年夏には大塚社長批判も社内で起きた。これは何が原因だったんですか。

 楢葉 1976年という年は第二次オイルショックで不況が急速に進んでいました。大塚商会にとっては創立15周年の記念すべき年だったんですが、ボーナスは少なく、15周年記念式典の時、挨拶している大塚社長が壇上でいきなり泣き出してしまい、みんなビックリしました。

 大塚さんはわれわれには何も言わなかったので知りませんでしたが、銀行は金を貸してくれず、資金繰りには本当に困っていたようです。

 そうしたなかで、8月の業績も非常に悪かった。予算達成率が80%未満の支店が14もあったりして。この14支店長に緊急招集をかけ、「成績を落とすにも限度というものがある」と面罵しつつ、平手で頬を張ったんです。元軍人ですから、激情のあまりつい手が出てしまったのでしょうが、いかに社長といえども、手を出したことは許せることではないと役員の意見が一致、建白書というか、詰問状というか、役員全員が署名捺印して、社長に会いに行きました。

 奥田 結果は、雨降って地固まることになるわけですね。

 楢葉 大塚さんも相当悩んだ末に、予算未達成の支店長の減俸という懲戒を白紙撤回、騒動は沈静化しました。この辺りが、大塚さんの偉いところですね。自分が反省すべきだと思った時は、きちんと反省し、次の手を打ってくる。

 この時の事態収拾策で見事だったのは、人事評価の公平性、公正性、透明性を高める努力をしたことです。誰もが分かり、納得できる基準を決め、マネージャーの恣意が入らないようにした。

充足していたオフコン倍々3か年計画

 奥田 1978年には「オフコン倍々3か年計画」が打ち出されますね。大塚さんの自伝「風雪を越えて」では、「楢葉君も承知の上だからね」と書いてありますが、実際はどうだったんですか。

 楢葉 最初に相談を持ちかけられた時は狂気の沙汰だと思いましたよ。

 当時のオフコンは手作りに近く、稼働させるまでに順調にいって半年かかる。しかも一発OKなど滅多になく、手直しに数か月とられるなんてざらでした。

 77年の販売台数は60台、部員はセールス、SE、CE、プログラマー、インストラクターなどで総員43人でした。販売台数が増えれば、人員も急増させていかねばなりませんが、そんなことが可能だろうかとまず考えたのです。一方で、オフコン業界で生き残っていくためには、年間500台は売らなければダメだろうという大塚社長の判断も、それはその通りだと思いました。

 それで腹をくくって、挑戦することにしたんです。78年120台、79年240台、80年480台という具体的な目標を設定、走り出しました。最初は、部員もとまどい、反発もあったんですが、会社の将来を俺たちの力で変えてやろうという意識を共有するようになり、本当に目の色が変わってきました。営業は営業で、新規客をいかに開拓するかを寝ても覚めても考え、SEはSEで、同じ業種のユーザーならパッケージ化することで手離れをよくしようというテーマに取り組むなど、全部員がそれぞれにテーマを設定し、全力を上げて取り組みました。

 78年の12月25日に累計120台めの受注を獲得。その達成感、充足感を部員全員で共有でき、本当にうれしかったですね。

 運もよかったんです。まず、信州精器(現セイコーエプソン)さんから手離れのよい会計専用機が登場し、これを有力商材にすることができた。複写機で会計士事務所には以前から食い込んでいましたので、その顧客向けに会計専用機を勧めて相当数のユーザーを開拓できました。また、後半にはNECさんから名機「システム100」が登場して…。

 79年は不況の頃。大手メーカーがSEなどの採用を手控えていたため、優秀なSEを採用できたという点で、大塚商会にはこれも幸いしました。SEというのは個人差の大きい職種ですから、優秀な人材を採れるのは戦力的にとても重要です。

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