日本語プラス1つの外国語を――第10回

千人回峰(対談連載)

2007/05/21 00:00

志賀徹也

オートデスク 元社長 志賀徹也

日本DECに21年間、最後はリストラの責任者に

 奥田 それでDECに入社するわけですか。

 志賀 ええ。日本DECで最初の仕事は、ハードのプロダクトビジネスでした。日本電子時代にはOSなどソフトまわりを担当してましたから、いささかあわてましたが、大学時代に習ったことを思い出したりしながら、プリンタやディスプレイなどを開発していました。

 これを約10年やり、1985年には営業をやることになりました。当時のDECはOEMの比重が高く、私もお客様のところにはよく出向いてましたが、VAX(Virtual Address eXtension)の拡販のため、直販を強化しようとしていました。

 奥田 VAXというのは32ビットのミニコンで、「スーパーミニ」と呼ばれていたんでしたね。

 志賀 そうです。市場での評価は高く、ミニコン市場で独占的立場を固めていくわけです。私は直販をやる以上、SEが欠かせないよといって、SEの強化に力を入れました。

 ある銀行からディーリングシステムを受注しましたが、何かあったときのためには東京だけでなく、ニューヨーク、ロンドンにもSEの駐在員をおかないといけません。また、日本メーカーが東南アジアに工場を造ったとしたら、そこにも駐在員が必要です。そんなこんなで、世界中にSEを駐在させることになりました。

 営業をやるのは初めてでしたが、私の人生観はがらりと変わりましたね。マーケティングの教科書としてフィリップ・コトラー教授の本を何冊か買いまして、何回も読み返して勉強しました。

 奥田 パソコンの本部長もやっておられましたよね。

 志賀 1989年にシステムエンジニアリング本部本部長になりましたが、ハードのプロダクトビジネスの面倒をみるのが仕事で、プランニングからお金の勘定まですべてを管理していました。

 PC事業部の本部長になったのは1991年。当時、DECはパソコンには完全に出遅れ、苦戦していました。プロフェッショナル向け、ワープロ専用機、ほぼIBM互換機という3つのラインを動かしていたんですが、どれもうまくいってませんでした。私は、IBM互換機に力を入れるしかないと思い、1991年12月28日に、OADGグループの責任者に会いに行き、OADGに入ることを表明しました。

 どこで作るかについても、アメリカに工場を持とうと主張する派と、台湾のほうがいいとする派があり、私は台湾派でした。

 実際に売ろうとして痛感したのは、DECにはパソコンを売るノウハウがないという点でした。低価格のパソコンを直販だけで売ろうとしても、とても採算ラインには乗りません。

 この頃のことでよく覚えているのは、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏が「おまえさんがパソコンやるなら応援するよ」と言ってくれたことです。どのくらい売るつもりだといわれて、まだ分からないというと、「とにかくパソコンはボリュームだ。いっぱい売らないと採算取れないよ」とアドバイスしてくれました。

 ノウハウをもっていないのでどこかと組むしかないと思い、エプソンに話を持っていき、ダブルブランドで売ることにしました。

 奥田 週刊BCNに最初に志賀さんの名前が出てくるのは1992年6月8日号の「エプソン、日本DEC PC LANで相互供給」という記事ですが、これのことですね。取締役になられたのは1994年ですか。

 志賀 ええ、チャネル本部長として取締役になったものの、じつは最初の仕事はリストラの原案作りでした。アメリカ本社のほうは1992年からリストラを実施していましたが、約2年遅れで日本も対処せざるを得なくなりました。

 当時、全世界のDECの社員は約10万人、日本DECは3500-3600人ほどでしたが、私は500人削減案を出しました。1000人の社員が居たら、まず300人を切り、その後で100人を新たに採用することで新陳代謝を図るべきだという説を聞いたことがあり、これが500人カットの理由でしたが、実際にやったのは300人でした。結局、翌年に第二次リストラを行う羽目になって、リストラというのは小出しにしたらダメということを痛感しました。

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