ジャック・ウエルチを怒鳴りつけた男――第1回

千人回峰(対談連載)

2007/01/05 00:00

千葉三樹

千葉三樹

エルプ 代表取締役社長

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第1回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

古いレコードをレーザー技術で再生「消える文化を蘇らせるのも技術の役割だ!」

 エルプの社長である千葉三樹さんの存在は、松下電器の社内報「PaNa」の「他社に学ぶ」というコラム記事で知った。米GE(ゼネラルエレクトリック)で副社長を務めていた千葉さんが、こともあろうにジャック・ウエルチ会長に「バカヤロー」と怒鳴りつけたという一節にまず惹かれ、本気で読み直してみた。そのユニークな発想、行動力に驚いた。さっそくアポイントメントを入れたらすぐに了承がとれた。そして、GE時代の出来事、光学式アナログ・レコード・プレーヤー「レーザー・ターンテーブル」開発のいきさつなどをフランクに話してくれた。

 「300億枚はあるといわれるレコードが消えていこうとしている。しかし、レーザー技術を活用すれば、レコードの再生は可能だ。これまでは、新技術の台頭は世代交代を引き起こし、古いものは消えざるを得なかった。だが、古い文化を再生、蘇えさせるのも新技術の役割のはずだ。既存のメーカーがやらないなら、自分がやらざるを得ないと考えた」という言葉にすごく感動した。
 

なぜウエルチ会長と衝突したのか

 まず、GEのジャック・ウエルチ会長とけんか別れするまでのいきさつを、私なりの解釈でまとめると次のようになる。

 千葉さんは1969年、米GEに入社、1985年には、初の日本人副社長として、GEの民生電子部門のトップに就任した。46歳の時だった。当時、この部門は約4万人の社員を抱えていたが、日本メーカーに押されて一日1億円ともいわれる赤字を垂れ流していた。その立て直しが与えられた千葉さんに与えられたミッションだった。

 「品質が悪すぎ、日本メーカーとは対等に競争できない」というのが千葉さんの見立てだった。そこで、生産のアウトソーシングを模索する。まず、松下電器産業に接触、当時の山下俊彦社長に「作ってもらえないか」という話を持ち込んだ。松下電器では、当社自身では無理だがと断りながらも、松下寿電子工業を紹介してくれた。松下寿は大乗気で、シアトルに工場を新設、第一ロットの製品を出荷するところまでこぎ着けた。

 ところが、ジャック・ウエルチ会長は、千葉さんには無断で、同部門をフランスのトムソン社に5000億円で売却する話を進めていた。この売却話が表面化したのが、松下寿から第一ロットの製品が出荷される直前だった。アウトソーシングによって、同部門の復活を確信していた千葉さんは、すぐさまウエルチ会長の元に飛んでいき、売却を止めるよう説得したが、ウエルチ会長は聞く耳をもたない。キャッシュが欲しいウエルチ会長と、自立再生を信じる千葉さんが対立したわけである。米国企業では、会長の力は絶大だが、千葉さんは思わず日本語で「バカヤロー!」と叫んでいたという。それに対し、会長は「黙れ。出ていけ!」と叫び返してきた。

 これで、GEとは決別するわけだが、私自身はジャック・ウエルチ氏にはそれなりの関心をもっており、注目していた人物の一人である。そのウエルチに「バカヤロー!」と怒鳴りつけた千葉さんの、経営者としての感覚に共感を覚えた。
 

構想を発表するもメーカーは関心示さず

 帰国して、経営コンサルタントとして活躍をはじめた千葉さんの元に、GE時代の元同僚から「レーザー・ターンテーブル」の商品化についての相談が持ちかけられた。レーザー・ターンテーブルというのは、アナログレコードの再生をレーザーによって行うという発想の技術である。

 米国のロバート・ストッダード氏がスタンフォード大学在学中に思いつき、「レコードは光学方式で再生できる」との理論を発表したが、指導教授や学友は「不可能だ」と冷ややかだった。卒業後、彼は自己の理論の実現に向けてFinial Technology Incを設立、多くの投資家からの資金提供を受けて、7年をかけて基礎技術を確立した。この間の投入資金は24億円になるという。

 ストッダード氏は事業化に当たってパートナーを探したが米国では見つからず、千葉さんに相談が持ちかけられたのである。「自分のすべてをかけてきた研究だ。助けてくれ」という言葉に動かされた千葉さんは記者会見を企画する。

 1988年3月、東京で大々的な記者会見が行われ、約100人が出席した。音響系メーカーの代表者にも声をかけており、シャープ以外は社長が出席したという。しかし、商品化に関心を示す企業はついに現れなかった。ひとつには、今後、音楽の主流はデジタルになり、アナログには将来性がない、さらにはレーザー・ターンテーブルの技術は、量産には不向きである--というのが大きな理由だった。
 

自分でやるしかない

 そこで、千葉さんは自分で事業化する決意を固める。

 「GE時代、大量生産と大量廃棄の繰り返しに、自分がやってきたことの喜怒哀楽も廃棄されるような無常感を感じていた。古いものは捨てるだけでいいのだろうか。古いものを蘇生させ得る新技術が目の前にある。消えるしかないと思われていたアナログレコードを蘇らせる――これは自分の人生をかけうるテーマだ」と考えたという。

 私がもし物書きなら、「レコードはエジソンが発明した、エジソンといえばGEだ。そのGEもやる気がないという。GEを見返してやるチャンスかもしれない」というようなストーリーを考えるなと思いながら、千葉さんの話を聞いていた。
 

立ちはだかった三つの課題

 自分で開発し事業化するに当たっては、三つのことを何度も何度も検討したという。一つは、本当に開発できるのか、という問題である。当時のレーザー・ターンテーブルは、100枚中10枚は再生できたが、90枚はダメだった。古いレコードというのは、反りがあったり、溝自体が傷ついていたりするためだ。少なくとも90枚は再生できなければ商品ではない、と考えていた。もう一つは、商品化した以上、長期に渡るアフターケアが求められるが、これが可能だろうか、という問題だった。そして、全世界に発信できるだろうかという点も検討課題とした。

 とにかくやってみるしかないと考え、自己資金を投じて、1988年に、dbxブランドで、業務用・家庭用オーディオ製品の生産・販売を行っていたBSR Japanを買収した。1990年には、開発元のFinial社から、特許権を含めてすべての事業権利を買収、同時に社名をエルプに変更した。
 

開発に自己資産8億円投じる

 とはいえ、実際の商品化は容易ではなかった。92年には、第一号機をカナダ国立図書館に納入しているが、これはまだ開発途上の製品だった。同館の強い要請で納入したのである。ただ、同機は立派に動作した。納入後、同館の館長が最初に再生を試みたのは、大きく反り返ったレコードだった。カナダがイギリスから独立後、初めて開催した国会でのオープニングスピーチが収められているという。関係者たちが固唾をのんで見守るなか、見事な再生が始まった。その瞬間、拍手喝采が起きたという。「この感動は決してお金では買えない」――館長が最初に発した言葉だった。

 実際に売れるモデルの開発に成功したのは、96年だった。この間、千葉さんは8億円ほどの開発資金を投じたという。奥さんが資産家だったから持ちこたえたと苦笑いする。
 

倒産寸前に出会った救いの神

 商品は開発できたのに、97年には債務超過であわや倒産という危機も経験する。ちょうどそんな時、ディ・ブレーン証券の出縄良人社長が、インターネットで知ったといって、自分のレコードを持って訪ねてきた。かけてみると、見事に再生、感動した出縄社長は即座に購入を決めた。そんななかで、債務超過のことに話が及んだら、出縄社長から、いまの会社を一度つぶして、同じ名前の会社をつくればいい、と教えてもらった。97年にエルプからウェルに社名変更、ウェルの子会社として新エルプを設立しているが、こうして倒産の危機は免れることができたという。

 いま会社は順調に回転をはじめているが、ここまで支えてくれた最大の要因は何ですかと聞いたところ、最初に返ってきたのが「お客さんの声」という答えだった。カナダの国立図書館のケースなど、話を聞かされた私も思わず涙腺がゆるんでしまった。「出縄さんが偶然訪ねてくれて、知恵を授けてくれるなど運も良かった。いや、最初に上げなければならないのはカミさんの存在かな」とも言っていた。

 2006年9月にはレーザー・ターンテーブルのファンクラブが発足したそうだ。(BCN社長・奥田喜久男)
 

■連載にあたって■

 私は「千日回峰」と名付けた切り抜き帳を作っている。新聞や雑誌を読んでいて、面白い考え方だな、ユニークな発想だな、などと関心を持った人物についての記事の切り抜きだ。その総数は1000人に近づいているが、まだまだ増えていきそうである。

 いま、私が関心を持っているのは、「もの作りの本質とはなんぞや」ということと、それを裏から支える「技術開発のあり方」ということ。私流に「技術は市場を創造する」という言い方をしているが、最近は、その観点から有益な発言をしている人の切り抜きが増加中だ。

 コンピュータ業界の枠にとらわれることなく、できるだけ幅広く目配りしているつもりである。だから、社長もいれば市井の職人もいるし、芸術家もいる。そうした人たちに私のほうからアプローチし、できる限り生の声を聞くことにしてきた。

 「人ありて、我あり――私が出会った人々」では、そうした生の声が聞けた人たちの発言を紹介しつつ、私が理解できた範囲での感想なども入れながらまとめていきたいと思っている。

 ところで、「千日回峰」というのは天台宗の行の一つである。千日回峰行はいつかやりたいなと思っていた時期もある。7年の間に、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを目指すという荒行である。千人の人に合い、懐に飛び込んだ話ができれば、なにがしかの悟りは開けないものか、そんな願いを込めている。