【『千人回峰』とは、人の生き方についての対談連載です】
 高京徹さんのご尊父、高基秀さんが会社を興されたのとBCNの創業はほぼ同じ時期。そんなこともあって、とても懇意にしていただいた。大阪出張の折などには、阿倍野区にある本社にお邪魔して、あれこれとお話をうかがったりしたものだ。いつか『千人回峰』に登場していただこうと思っているうちに逝去され、願いは叶わなかった。今回、京徹さんに登場していただいたのは、お父様の“代わり”というわけでは決してないが、お父様と“一緒に”という想いは強くある。(本紙主幹・奥田喜久男)

構成・文/浅井美江 撮影/山中順子

パソコンの黎明期にいち早く教室を開講

奥田 少しご無沙汰でしたね。

  お久しぶりです。

奥田 今日は高さん自身のことに加えて、お父さんの話もうかがわせてもらえればと思っています。

  はい。わかりました。

奥田 高電社はお父さんである高基秀さんが創業されたんですよね。設立されて何年くらいになるんでしたっけ。

  1979年の創業ですから、今年でちょうど40年です。

奥田 ああ、40年という節目を迎えられたんですね。おめでとうございます。

  ありがとうございます。

奥田 僕は、お父さんとは一回り以上違うんだけれど、創業したのがほぼ同じこともあって、仲良くしてもらっていました。お父さんは何年生まれでしたか。

  34年です。

奥田 確か済州島のご出身。日本に来られたのは何歳の頃だったのでしょう。

  確か16歳だったと思います。大阪の高校に入るために来日して。

奥田 僕ね、お父さんから聞いてすごく印象に残っている話があるんです。若い頃、警察官に職務質問されて言葉がわからなくて困った話。高さんは聞いたことがあります?

  はい。親戚の手伝いで、早朝にお餅か何かの材料を自転車で運んでいて、呼び止められた話ですよね。

奥田 そうそう。あまりにビックリしたのと怖かったのとで、とっさに言葉が出てこなくて……。あの時、同時通訳みたいなものがあったらよかったのにと。それが高電社の翻訳という社業の根っこにあるんですよ、とおっしゃっていました。

  ああ、それはあると思います。

奥田 その後、大学に行かれたんでしたよね。

  はい。大阪の高校を出て早稲田大学に進みました。卒業後、大学院に通って大学教授になろうとソウルに帰ったのですが、戦後まもない頃で向こうの状況はとても厳しくて、結局日本に戻ってきたようです。最初は知り合いの会社に就職して、30歳で独立して電気工事の会社を始めました。

奥田 そうか。電気工事業が最初だったんですね。会社の名前覚えていますか?

高  「岩木電気工事」です。“気”は中に米と書く旧字だったかも……。会社は今も存在していて、電気工事業を営んでいます

奥田 パソコンに移行されたのが79年?

  そうです。岩木電気工事の技術部門2課を分離独立させて、「高電社」を創業。その1年後に「高電社パソコン学院」を設立して、パソコン教育を開始しました。

奥田 お父さんが電気工事業からパソコン教育に移られたきっかけはご存じですか。

  (間髪を入れず)インベーダーゲームです。

奥田 え? あのインベーダーゲーム?

  はい。77年くらいでしたか。爆発的に流行していましたよね。

奥田 流行してはいましたけど……。どこで出会われたんだろう。

  喫茶店だと思います。ゲームに出会って、こんなに面白いことができるのはなぜなんだと言い出しまして。

奥田 ソフトウェアの存在を知ってしまったと。それでどうされたんですか。

  当時、父は40歳を過ぎていましたけど、突然、コンピューターの教室に通い始めまして。ハードウェアは工場がないと作れないが、ソフトウェアはアイデア次第だというようなことも言っていましたね。

奥田 さすがです。

  でも、自分がプログラマーになるのではなくてパソコンの教室を開きました。

奥田 教室の講師はどのようにして揃えられたのですかね。

  自分が通っていたコンピューター教室の先生を、2年がかりで口説いてスカウトしたり……。その後は、京都コンピュータ学院の卒業生を採用したりしていました。

奥田 商才に長けていらっしゃいます(笑)。

同時翻訳のきっかけは韓国ニュースの日本配信

奥田 それにしても79年にパソコンとはずいぶん早かったですねえ。

  パソコン教室を始めて屋上に看板を掲げたのですが、「あの時はみんな笑っていたよ」と。

奥田 笑われた理由は?

  「あれは何や」「あんなもん、どないするねんな」とか言われていたみたいです。パソコンと言って分かる人がほとんどいない時代でしたから。この話は、ビジネスが軌道に乗った後に聞いたんですが、当時笑っていた人たちを「見返してやった」という、父の心意気を強く感じた瞬間でしたね。

奥田 溜飲を下げたんでしょうね。そうか、お父さんは40代でしたか。僕は81年に32歳で創業したんだけど、当時ベンチャー企業の経営者の主力年齢は18~25歳くらいだったかな。西和彦、古川亨、成毛眞が僕より10歳下でしたから。

高  じゃあ、父はずいぶん年上だったんですね。

奥田 そう。お父さんは高齢のベンチャー起業家、僕は中齢のベンチャー起業家でした(笑)。さて、お父さんはパソコン学院を始められて、それからどうされたんですか。

  81年8月に、日本初の日本語ワープロとなる、PC-8000用「WORD3000」を開発・発売。その翌年5月に「マイレター」という商品を出しました。

奥田 ああ、ありましたね、マイレター。最初はワープロだったんだ。

  中学を卒業して高校に入る前の春休みに、私も出荷の梱包のアルバイトをしていました。当時はハードとソフトをセットで販売していましたから、結構な金額だったことを覚えています。

奥田 パソコンの黎明期ですからね。そこからパソコンの産業がぐぐっと右に上がっていくんですよね。

  そういえば、父から聞いたんですがパソコン学院を始めた時に、ジャストシステムの創業者の方もおいでになっていたとか。

奥田 あ、そうなんですか。

  父は日本で初めて日本語ワープロソフトを出したんですが、この後、この分野ではジャストシステムさんが市場を席巻されましたよね。後にテレビの番組でジャストシステムさんが取り上げられていたことがあって、父に知らせたら「もういい!」と……。

奥田 ああ、何となく分かります。追い越されたくやしさもあったのかも。

  その頃は何となくストレスを抱えていたようでしたね。

奥田 まだ同時翻訳の構想が固まっていなかった。

  そうです。それに今でこそ翻訳は華々しい業界になりましたが、ニッチな市場といわれる時代がとても長かったですし。

奥田 お父さんが本格的に同時翻訳を手掛けられたのはいつ頃ですか。

  85年くらいでしょうか。韓国の「DACOM」という通信会社がNECや富士通と契約して、PC-VANやNiftyでDACOMのニュースを日本語で配信することになり、日本側の契約を高電社が担ったようで。

奥田 なるほど。それで同時翻訳が必要になった。

  最初は日本のパソコン画面にハングルを表示するために、フォントづくりから始めたようです。

奥田 今もそれを使われているんですか。

  いや、DOSで使用する解像度の低いものでしたから今は使用に耐えません。で、ようやく画面にハングル文字は出るようになったものの、韓国語が分かる人にしか読めないということで、そこから翻訳が進んでいったわけです。  

奥田 韓国語が分からない人にも読めるようにしたと。そういう経緯があったわけですね。(つづく)

高校の修学旅行直前父親に買ってもらった時計

 旅行前、急に商店街に連れられて「好きな時計を選びなさい」とお父さんから言われて高さんが選んだもの。時計に付いているベルトは、今回の撮影のためにと高さんが新しくした。お父さんが買ってくれたベルトと並べてみる。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
主幹 奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 
Profile
高 京徹(こう きょうてつ)

 1967年、大阪生まれ。米国マサチューセッツ州にある工業専門の大学であるウースター工科大学卒業。95年、高電社入社。営業・企画から海外担当を手掛け、2010年、独立起業。検索ソフト『いもづる大辞典』等を開発。18年4月、高電社代表取締役社長に就任。韓国語、日本語、英語、中国語を操り、現在はポルトガル語を勉強中。