【『千人回峰』とは、人の生き方についての対談連載です】
 昨年10月、松波さんから『父と私の履歴書――松波道廣 悪戦苦闘の記録』という私家版の本を頂戴した。400ページ近くある分厚い本だが、ページをめくるごとにグイグイと引き込まれ、結局その日のうちに読了してしまった。対談の中でもふれているが、これまで経験してきたビジネスや家族との関係などについて、なぜ、これほど赤裸々に書き綴れるのかと思うほど素直でストレートな筆致だ。松波さんとはもう40年近くの長いお付き合いだが、今回、新たな側面を発見した気がした。(本紙主幹・奥田喜久男)

構成・文/小林茂樹 撮影/松嶋優子

秋葉原の一坪ショップが幼少時の原風景

松波 今回、奥田さんとお話をするということでパッと頭に浮かんだのが、1981年に奥田さんが初めて私たちの店を訪ねてこられたときのことです。私はその年の4月「NECマイコンショップ」というラオックスの販売店を新宿にオープンさせていました。

奥田 81年ですか。

松波 そのときのことを覚えていらっしゃらないかもしれないけど、「週刊BCN」は当時、モノクロでペラペラの「ビジネスコンピュータニュース」という新聞でした。

奥田 よくスラスラとタイトルが出てきますね。

松波 奥田さんがご挨拶に見えたのは、たぶんその年の秋ぐらいだったと思いますが、その年の創業じゃありませんか?

奥田 81年8月18日の創業です。

松波 そうでしょう。だから、秋に会っているんですよ。

奥田 うわー、忘れてる(笑)。

松波 当時、新宿の伊勢丹会館の隣にあったそのショップで扱っていたのはゲームばかりだったんです。でも、奥田さんの「ビジネスコンピュータニュース」という新聞のタイトルに私はピンときました。私はもともと、マイコンをビジネス用途で売るんだとラオックスで主張していましたから、ビジネスという言葉に敏感なんです。だから、このときは「われわれの同志が来た!」みたいな気がしたんです。

奥田 そんなことを思われていたのですね。ところで、この本(私家版の『父と私の履歴書』)を読んで改めて驚いたのが、松波さんはすごく優秀な方なんだと。

松波 優秀じゃないですよ。その本には失敗の連続を書いたんですから。

奥田 でも麻布高校を出て、東大には落ちたけれど早稲田の理工に行くでしょう。背が高くて、お坊ちゃんでしょう。それでフランスにも留学している。すごいサラブレッドじゃない?

松波 親父からしたら、そういうつもりだったんでしょうけどね。たしかに小さい頃は可愛がってくれました。もっとも、仕事を一緒にやるようになったらビシバシですが(笑)。

奥田 幼い頃、お父さんが創業された頃の様子は覚えていますか。

松波 秋葉原の店で商売していた時期、私は小学生でしたが、当時住んでいたのが市谷薬王寺町で、そこに都電の13系統というのが走っていて、その都電に乗ると秋葉原まで一本で行けるわけですよ。その頃、しょっちゅうお店に行っては商売の邪魔をするものだから、よく怒られていたんです。いたずらばかりしていましたね。

奥田 どんなお店だったんですか。

松波 本当に一坪ショップです。いまもラジオセンターにそういうお店があるじゃないですか。その一番角にありました。店を開いたのは51年で、その権利金が70万円だったそうです。

シルビー・バルタンにあこがれてフランス語を習得する

奥田 松波無線は51年創業ということですが、秋葉原には戦前から電気街のようなものがあったんですか。

松波 戦前にはありません。真空管などGHQの放出品を売る露天商の店が秋葉原の隣の神田須田町にあって、そういう人たちが戦後、電気街をつくっていったわけです。

奥田 秋葉原には青果市場がありましたね。

松波 そう、戦前は、秋葉原のメインの機能は青果市場だったんです。

奥田 そうした秋葉原の変化に、お父さんも乗ったと。

松波 49年頃にラジオセンターができ、うちが店を出したのが51年ですから、ちょっと遅れた形ですね。父は陸軍の幹部候補生として入隊した柏の部隊で終戦を迎えたのですが、家族が疎開していた滋賀に一度戻った後、弟、つまり私の叔父とともに東京に出てビジネスを始めました。でも、すぐに電気街でパーツの店を始めたわけではないんです。当初は豆腐を売ったり、電気の配線工事などをやっていて、いろいろと試行錯誤したようです。

奥田 松波さんは49年生まれだから、まさにお父さんが商売を大きくしようとしている時期に重なりますね。

松波 そうですね。だから私は、おばあちゃん子だったんです。

奥田 みんな仕事をしているから……。

松波 そうです。でも、小学4年生になると母親が受験参考書を山ほど買ってきて、家庭教師をつけて、もう、しこたま勉強させられました。3年生まではおばあちゃんといっしょに自由を謳歌していたのに、4年生からは受験の準備で地獄の日々でしたね(笑)。

奥田 それだけ、長男として期待されていたということですね。

松波 まあそういうことですね。でも、幸いなことに私が中学1年になったとき、12歳下の弟が生まれたのです。そうすると、母親は弟に期待するようになるんです。弟はまだ真っさらだから、これから私が鍛え上げると。それで私は中学以降、再び自由を謳歌するわけです。

奥田 麻布中学で?

松波 麻布って、校風がとても自由なんですよ。だから、社会に出ても麻布出身者は一癖あるような個性の強い人が多いです。役人らしくない役人とか銀行員らしくない銀行員とか、型にはまっていない人が多いですね。

奥田 日仏学院に通ってフランス語を学び、早大のサークルでは英語会ということですが、どうして英語会に入ったのですか。

松波 好きなフランス語では食えないだろうという意識がありましたし、実際のところフランス語は難しいということもありましたね。

奥田 でも、ソルボンヌ大学に短期留学するほど、熱心だったんですよね。

松波 実は、シルビー・バルタンにラブレターを書こうと思ったんです。

奥田 それ、本当なの?

松波 本当ですよ。高校生のとき「アイドルを探せ」が大ヒットして、ぞっこんだったものですから。

奥田 そんな動機で……。

松波 NHKのフランス語講座を始めたきっかけがシルビー・バルタンでした。高校1年、2年のときのことですね。
(つづく)
 

天風会の誦句集

 松波さんが行修リーダー(指導員)を務める天風会は今年で100周年を迎える。中村天風が、上野精養軒の横で講話を始めたときから数えて100年なのだそうだ。「趣味は天風会。そこでワイワイやっているのがとても楽しい」と松波さんは語る。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
主幹 奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 
Profile
松波 道廣(まつなみ みちひろ)

 1949年7月、東京都新宿区出身。72年、早稲田大学理工学部電気通信学科卒業後、ソニーに入社しスピーカーの設計開発に携わる。76年、松波無線入社。82年、松波無線とラオックスの合併により、ラオックスの常務取締役に就任。87年、外国人向け日本語学校などを運営するLANTEX社長に就任。94年、ラオックスに復帰。95年、取締役就任。2004年、カスタマー経営研究所設立。05年6月、日本コンピュータシステム販売店協会(JCSSA)専務理事に就任。